洋書を読むということはどういうことなのか?

ここで少し、「洋書を読むとは一体どういうことなのか」という原理的な話について考えてみたいと思います。このことを考えることによって、洋書を読むという行為の本質が見えてきて、それがどういう意味を持つことなのかという点について、理解を深めることができるのではないかと思うからです。

そもそも、洋書を読む理由というのは、以下の3つに要約できると私は考えています。

1)そもそも情報は偏在している。
2)情報の蓄積によって、この偏在は激化する。
3)1と2の結果として、「世界の中心」が生じる。

少し分かりにくいと思いますので、以下敷衍します。

まず第一に、「そもそも情報は偏在している」という点です。

例えば、新聞社では「夜討ち、朝駆け」といって、政治部の記者が大物政治家の家に足しげく通います。何のためにそういうことをしているのかというと、大物政治家のところには政治的に重要な情報が集まっており、しかも、この情報を他の箇所からは手に入れることはできないからです。つまり、「情報は偏在している」のです。

これと同じように、ドイツに関する情報が世界で一番集まっているのは、ドイツです。グルジアに関する情報が世界で一番集まっているのは、グルジアです。そして、日本に関する情報が世界で一番集まっているのは、日本です。このように、情報の性質によって、その情報が一番集まっている場所というのは違います。つまり、「情報は偏在している」のです。

ドイツに関する情報をドイツ語で集めなければならない、グルジアに関する情報をグルジア語で集めなければならない、日本に関する情報を日本語で集めなければならない、というのは、まず第一にこういうことです。

次に、「情報の蓄積によって、この偏在は激化する」という点です。

歴史的には、狩猟社会から農耕社会に移行することによって貧富の差が激しくなったと考えられています。これはなぜでしょうか。その原因は、「蓄積」が可能かどうかという点にあります。

例えば、狩猟社会においては、マンモスを1頭捕まえたら、マンモスの肉が腐らないうちに食べてしまわなければなりません。一部は干し肉として残しておくことも可能でしょうが、干し肉から新たな肉が生まれることはありませんから、干し肉は食べてしまえばおわりです。

これに対して、農耕社会においては、収穫されたコメは容易に保存ができます。米倉に保存しておけば、肉のように腐る心配がありませんので、たくさん収穫できればできるほどよいということになります。収穫が豊かだった家は、一年間食べるのに困らないでしょうし、次の年もたくさん収穫できれば、米倉はさらに満たされていきます。こうして富裕層が発生します。

しかも、収穫されたコメは種籾にもなるので、たくさん収穫があれば、次の年にはさらに収穫を増やすこともできます。こうして、貧富の差はさらに拡大していきます。

情報についても、まったく同じことが言えます。

そもそも情報が偏在していることは前述の通りですが、単なる口伝の情報は、時とともに忘れられてしまいます。ところが、書物という形で保存しておくことが可能な場合には、情報はどんどん蓄積されていきます。こうして、情報の豊かな国と情報の貧しい国の格差が生まれます。すなわち、書物がたくさん出版されている国には情報がどんどん蓄積されていき、何らかの事情で書物が出版されない国では、情報はまったく蓄積されないということになります。

さらに、書物から知識を得ることによって、その知識をヒントにした新たな知識が生まれます。それがまた書物の形で蓄積されていきます。こうなると、書物による情報の蓄積がある国と、それがない国の間の情報格差は、等比級数的に開いていくことになります。

例えば、かつて遣隋使や遣唐使などは必ず中国王朝から漢籍(漢文の書物)を持って帰ってきました。なぜそんなことをしたのかというと、これは、当時の中国の情報蓄積量が世界一だったからです。実は中国は紙の発明国であり、8世紀に至るまで紙の製法は西方に知られておらず、したがって、世界一の情報蓄積国となることができました。当時の日本人は、圧倒的な情報蓄積のある中国の情報を漢籍を通じて得ていたのです。

しかし、その後紙の製法はイスラム世界やヨーロッパにも伝わり、その後ヨーロッパでは活版印刷術が開発されて、物凄い勢いで情報の流通と蓄積が進むことになります。その他の世界では手書き写本による出版でしたので、そのスピードがまったく違っていました。これが、結果的に欧米の科学技術が世界一となる原因となりました。

わが国でも明治維新以降は盛んに印刷による出版を行いましたが、当時は、情報蓄積の量では欧米に叶いませんでした。そこで、洋書を読んで欧米の情報を摂取する必要があったのです。つまり、洋書を読むということは、欧米に蓄積された知識に直接アクセスすることにより、それを摂取するということです。

現在では欧米と科学技術の進歩で肩を並べるようになりましたので、かつてのような情報蓄積の格差が洋書を読む原因ではなくなりました。むしろ、日米欧のいわゆる三極は、互いに凌ぎを削って競争を繰り広げている状況です。このため、お互いに新たな成果は急いで摂取する必要があり、相手に対して後れを摂らないようにしなければならない、というのが、現在でも引き続き洋書を読まなければならない主な理由となっています。つまり、競争相手である欧米の最新の科学技術や学術の進歩をチェックする必要があるということです。

なお、現在では、BRICsと総称される中国・インド・ロシア・ブラジルも頭角を現していて、やがては日米欧の水準に追いつくことも考えられます。特に、中国は物凄い勢いで成長しており、やがて日米欧の水準に追いつく可能性が高いといえます。幸い、日本では中国語を習得する人々の数も比較的多く、そうなった場合の備えは十分にできていると思います。

第三に、情報は「世界の中心」に集中する傾向があります。この「世界の中心」というのは、分野によっては異なります。

例えば、現在、マンガやアニメの分野で「世界の中心」となっている国は日本です。日本では、物凄い量のマンガやアニメが蓄積されることにより、それがさらに優れたマンガやアニメを生み出すという好循環が生まれ、他の国は全く及びもつかない圧倒的なマンガ・アニメの文化が形成されました。実際、日本のマンガとアニメはたいへん優れているため、世界に向けてどんどん翻訳されて輸出されています。しかしながら、翻訳されたマンガやアニメというのは、日本の豊かなマンガ・アニメ文化のごく一部に過ぎません。外国語に翻訳されていないマンガやアニメは、まだまだごまんとあります。そして、日本語を学ぶことにより、この翻訳されていないマンガやアニメの豊かな蓄積に直接アクセスしようというのが、世界中のマンガ・アニメファンのやっていることなのです。

逆に、現在、ビジネスに関する「世界の中心」となっている国はアメリカです。アメリカには、ビジネスに関する物凄い量のノウハウが蓄積されています。これは、他のどの国も及びもつかない圧倒的な情報蓄積量です。これが、アメリカを世界一の経済大国に押し上げている最も大きな要因です。アメリカのビジネス書は世界に向けてどんどん翻訳されて輸出されていますが、英語以外の言語に翻訳されていないビジネス書は、まだまだごまんとあります。そして、英語でこの豊かな蓄積情報にアクセスしようというのが、英書でビジネス書を読むということの意味です。

前述のように、どこが「世界の中心」かということは、分野によって異なります。社会科学・自然科学・人文科学のそれぞれの分野において、どこが「世界の中心」かをよく見定めて、そこから情報を摂取する必要があります。

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