自然科学者

日本で本格的に洋書の研究が始まったのは江戸時代です。当時は、いわゆる鎖国体制を敷いていて、オランダとの通商のみが許されておりましたので、基本的にはオランダ語の洋書(蘭書)を輸入してその研究を行っていました。「蘭学」と呼ばれていたのはそのためですが、いずれにせよ、その頃は、医学・物理学・化学・生物学・農学・天文学などの自然科学の研究が中心でした。したがって、わが国においては、自然科学と洋書の結びつきは伝統的に強いといえます。

例えば、蘭学者の杉田玄白は、オランダ語の『ターフェル・アナトミア(正式名称:Ontleedkundige Tafelen)』を日本語に訳し、『解体新書』として著したことで有名です。『蘭学事始』(岩波文庫、改版、1982年)33-37頁には、杉田玄白が、死刑囚の解剖に立ち会って、漢学の解剖図よりも、『ターフェル・アナトミア』の解剖図のほうが正しかったことを知り、本書の翻訳を決意したときのことが記されています:

〔・・・〕時に〔前野〕良沢一つの蘭書を懐中より出だし、披(ひら)き示して曰(いは)く、「これはこれ『ターヘル・アナトミア』といふ和蘭(オランダ)解剖の書なり。先年長崎へ行きたりし時求め得て帰り、家蔵せしものなり」といふ。これを見れば、即(すなは)ち翁がこの頃手に入りし蘭書と同書同版なり。これ誠に奇遇なりとて、互ひに手をうちて感ぜり。さて、良沢長崎遊学のうち、かの地にて習い得、聞き置きしとてその書をひらき、「これはロング〔long〕とて肺なり、これはハルト〔hart〕とて心なり、マーグ〔maag〕といふは胃なり、ミルト〔milt〕といふは脾なり」と指し教へたり。然れども漢説の図には似るべくもあらざれば、誰も直(ぢか)に見ざるうちは心中いかにやと思ひしことにてありけり。

これより各々打連れ立ちて骨ヶ原の設け置きし観臓の場へ至れり。〔・・・〕良沢と相ともに携(たづさ)へ行きし和蘭図に照らし合せ見しに、一としてその図に聊(いささ)か違ふことなき品々なり。腸胃の位置形状も大いに古説と異なり。〔・・・〕さて、その日の解剖こと終り、とてものことに骨骸の形をも見るべしと、刑場に野ざらしになりし骨どもを拾ひとりて、かずかず見しに、これまた旧説とは相違にして、たゞ和蘭図に差(たが)へるところなきに、みな人驚嘆せるのみなり。〔・・・〕

帰路は、良沢、〔中川〕淳庵と、翁と、三人同行なり。途中にて語り合ひしは、「さてさて今日の実験、一々驚き入る。且(か)つこれまで心付かざるは恥づべきことなり。苟(いやし)くも医の業を以て互ひに主君主君に仕(つか)ふる身にして、その術の基本とすべき吾人の形態の真形をも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来(きた)りしは面目もなき次第なり。なにとぞ、この実験に本(もと)づき、大凡(おほよそ)にも身体の真理を弁(わきま)へて医をなさば、この業を以て天地間に身を立つるの申訳(まうしわけ)もあるべし」と、共々嘆息せり。良沢も「げに尤も千万、同情のことなり」と感じぬ。その時、翁、申せしは、「何とぞこのターヘル・アナトミアの一部、新たに翻訳せば、身体内外のこと分明を得、今日治療の上の大益あるべし、いかにもして通詞等の手をからず、読み分けたきものなり」と語りしに、良沢曰く、「予は年来蘭書読み出だしたきの宿願あれど、これに志を同じうするの良友なし。常々これを慨(なげ)き思ふのみにて日を送れり。各々がたいよいよこれを欲し給(たま)はば、われ前の年長崎へもゆき、蘭語も少々は記憶し居れり。それを種としてともども読みかゝるべしや」といひけるを聞き、「それは先づ喜ばしきことなり、同志にて力を戮(あは)せ給はらば、憤然として志を立て一精出し見申さん」と答へたり。良沢これを聞き、悦喜斜(なの)めならず。

このような先人の努力があって、伝統的にわが国は洋書から西洋の科学技術を摂取することができたわけですが、江戸末期からの学術的蓄積により、最近ではわが国の科学技術の水準も欧米と肩を並べるまでになりました。しかし、現在においても、別の観点から、洋書を読むことが自然科学者として必須の要件となっています。

すなわち、自然科学の場合、現在、英語が事実上の世界共通語として用いられていますので、英語で論文を読むことができないと研究分野の先行研究を知ることもできません。また、英語で論文を書くことができないと、自己の研究業績を世界に向けて発表することもできません。したがって、現在でも、自然科学者は、英語の読み書きがきちんとできることが要求されます。これができないと、自然科学者としていかなる職業にも就くことができません。

もっとも、自然科学者の場合、英語一言語ができれば十分であり、英語以外の言語が読めるようになる必要性はほとんどありません。この点、社会科学者や人文科学者に比べると楽であるといえます。

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