「洋書読み」になるべきか、ならざるべきか、それが問題だ!

このサイトにおいでくださった方は、「洋書を読もう」という熱意を持っておられる皆さまだと思います。しかし、あり余る熱意というのは、時に人の判断を狂わせるものです。そこで、まず初めに「洋書を読むことはあなたにとって本当に必要なことなのか」という点を一度じっくりと考えていただくことにより、冷静で理性的な判断をしていただくことをお勧めいたします。その理由は、以下の通りです。

漢文には「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」(少年易老学難成、一寸光陰不可軽)という金言があります。また、同じことを、西洋の諺では「技芸は長く、人生は短い」(ars longa, vita brevis)といいます。もちろん、洋書を読めるようになることにはさまざまなメリットがありますが、同時に、これが一つの技術である以上、これを習得するには、その代わりに人生のいろいろなものを差し出す必要があります(参考:中島敦「名人伝」)。

例えば、語学を勉強するためにたくさんの時間とお金と努力が必要になります。これにより、家族や子どもとの貴重な時間を犠牲にしなければならないかもしれません。また、楽しい家族旅行を諦めて語学学校にお金を費やすという決定をするかもしれません。さらに、人によっては、洋書をしっかりと読めるようになるため、仕事をやめて留学したくなるかもしれません。それに、洋書を一冊読むには結構な時間がかかりますので、そのために時間が必要になって、家族との団欒の時間がなかなかとれなくなるかもしれません。

こういうふうに考えてくると、人によっては、「洋書読み」なんかにならないほうが、よっぽど幸せな人生を送れるかもしれないのです。なまじ「洋書読み」を志したばかりに、人生がまったく変わってしまったということもありえるのです。

ですから、洋書を読めるようになることは、本当に自分の人生に役立つことなのか、自分の人生を幸せにすることなのか、洋書によって得られる知識というのは、それほど自分の人生にとって価値のあるものなのか、という点をつきつめて考えておく必要があります。そして、「洋書を読めるようになったほうが、自分の人生が幸せなものになる」という確信が得られた場合に限って、「洋書読み」になることを志して欲しいのです。

そもそも、少なくとも日本に関する限り、洋書を読まなければならない必要性というのは年々低下してきています。江戸時代末期や明治時代から昭和時代にかけては、日本と欧米の間に圧倒的な経済力・技術力の格差がありましたので、洋書を読んで欧米列強の経済水準・技術水準に追いつくというのは国家を挙げて取り組むべき一大事業でした。国家を担うべきエリート人材を養成する教育機関であった旧制高校の学生が、ドイツ語でガンガン原書を読んでいたのも、このことと関係があります。

それから、江戸時代には徳川幕府(軍事政権)の言論統制が存在したため、一般人が書物の形で蓄積されている知識に自由にアクセスすること自体が困難でしたし、そもそも書物の形で情報が蓄積されることにも軍事政権の干渉が入ったりしました。幸い、明治維新により言論の自由が保障され、政権による言論統制は基本的になくなり、知識が書籍の形で徐々に蓄積されていきました。それでも明治時代や大正時代には、日本語における知識の絶対的な蓄積量が少なかったため、和書ではどうしても知識が不足し、ある程度以上の知識は洋書から得る必要がありました。例えば、町工場の技師などでも、ある程度以上の技術については、和書では歯が立たず、その結果、洋書に頼らざるを得ませんでした。

しかし、戦後の高度経済成長の結果、昭和末期には日本はアメリカに次ぐ世界第二の経済大国となり、平成の時代に入って科学技術や学問芸術の水準でも欧米と肩を並べる存在となりました。また、知識の蓄積という点に関しても、年間何万点という厖大な数の日本語の書籍が公刊され、それが図書館の蔵書となって誰でもアクセスできる状態となっています。西洋の主だった書籍のほとんどは日本語に翻訳されて出版されているため、日本語だけでもかなりの程度西洋の文化を摂取することができます。

わが国は、以上のような恵まれた環境にありますので、ほとんどの方々にとって、洋書など読まなくとも一生のうちで困ることはほとんどないと思います。聞くところによると、TOEFLの平均点から見る限り、日本人の英語力はアジアでも最低レベルなのだそうですが、上記のことを考えれば、別に大した問題とも思いません。つきつめて考えてみると、なぜ日本国民1億2000万人全員が英語を学ばなければならないのか、特に理由が見当たりません。むしろ、そんな必要性はないと考えるほうが自然です。そもそも日本という国は有史以来固有の豊かな文化を有する国ですし、しかも、現在では、翻訳を通じて「日本語で」世界中の文化にアクセスすることができますので、「敢えて洋書を読まなければならない」理由というのは、一般の方々に関する限りほとんど存在しないと思うのです。

やや傍論になりますが、以上の理由により、個人的には、「義務教育としての英語教育」というのは、日本における歴史的使命を終えたと思っています。今後は、世界とのビジネス交渉を行ったり、世界の先端知識を日本に紹介する役割を担うインテリ層だけに限って外国語教育を行えば十分でしょう。その他の人々については、古文や漢文教育を充実させたほうが、わが国の豊かな素晴らしい文化の蓄積が理解できますので、その方がよっぽど素晴らしいと考えています。日本人なのですから、ガリア戦記やシェークスピアよりも、古事記や源氏物語や古今和歌集を読むほうが先でなければおかしいでしょう。もちろん、インテリ層が「義務教育としての古文・漢文教育」を修めなければならないのは当然で、その上で、選択科目として外国語を学ぶべきです。しかも、全員が全員英語を学ぶというのはナンセンスで、中国語・フランス語・スペイン語・ドイツ語・ロシア語等、多様な選択可能性を認めるべきでしょう。

ですから、なぜ洋書を読もうと思うのか、よく考えて欲しいのです。洋書を読めるようになることのメリットと、洋書を読めるようになることのデメリットをじっくりと比較衡量して、その上で冷静な判断の下に、自分が「洋書読み」になることの価値と意味について判断を下して欲しいのです。

このことには、もう少し実際的な理由もあります。さきほども少し申し上げましたが、洋書を読めるようになるには、かなりたくさんの時間と努力を投資する必要があります。また、人によっては相当の金額のお金を投資する必要がある場合もあります。ですから、無鉄砲で向こう見ずな熱意だけでやり始めても長続きしません。きちんと明確な目標を持ち、それを実現するための周到な計画を立てて、継続的に努力を積み重ねる必要があります。そのためには、単に「洋書を読みたい」という漠然とした気持ちだけでは不十分であり、「洋書を読めるようになることにより、〇〇を実現したい」という具体的な目標を定める必要があります。そして、その「〇〇」が実現された暁には、自分にどのようなリターンが返ってくるのかという点もきっちりと見越している必要があります。

抽象的に申し上げても分かりにくいと思いますので、具体的な例を挙げたいと思います。千野栄一先生の『外国語上達法』(岩波新書)の27-28頁には、次のような例が載っています:

さて次の例は、ここまで来るとすさまじいという気がするが、実際に筆者におこったことなのでお伝えしておこう。もう何十年も前のことだが、筆者がプラハの学生寮にいたときのことである。ある日、見知らぬチェコ人の訪問を受けた。その人は汽車で三時間ほどの地方の都市にいる人で、一週に一回、私に日本語を習いたいというのである。一体いくらで教えてくれるか、どれくらいの期間で日本語が習得できるかという質問から始まったのだが、次に出された条件にびっくりさせられた。この人がいうのには、発音は全然教えなくてもいい、書いてあることの意味がわかればいいというのである。

いろいろ詳しく事情を聞いてみると、この人は化学の技師で化学の文献を訳せればいいというのが学習の目的であった。すなわち、単語が引けて、文を作っている規則、いわゆるシンタックス(統語法)が分かればいいので、会話はもちろん、「水」というこの字が読めなくても、H2Oを意味することが分かればいいのである。すでに英・独・仏・露もそのレベルに達していて、論文の内容は理解できるから、文字以外にはそう困難はないと思う、という主旨であった。そこで一年半くらいでできるでしょうと答えると、すぐペンとノートで計算を始め、往復の汽車賃と私への月謝はその後二ヵ年で回収され、そのあと死ぬまで稼げるので、お願いしますということになった。

この人が日本語を始める理由には、日本語の文献を読みたいということのほかに、チェコでは日本語の翻訳料がとても高いことと、企業の中で外国語が一つできるようになるたびに資格のランクが上がって給料が増える仕組みになっているという事情がある。

こんなに明確な学習意識を持ち、学習の対象すなわちどの領域のことがどの程度できるようになればいいかが分かっている人の進歩がどんなものであったかは、いうまでもあるまい。往復の汽車の時間を主として漢字の習得にあてたこの人は、一年三ヵ月後にはもう論文が無理なく訳せるようになり、「一年後からはプラスになります」と、にっこりしながら手を振って出ていった。その後姿がとても印象的であったのを覚えている。

以上の例は、チェコ人が和書を読めるようになった例ですが、日本人が洋書を読めるようになる場合にもまったく同じことがいえます。すなわち、このチェコ人は、「洋書を読めるようになることにより、〇〇(この場合は日本語の化学論文の翻訳)を実現したい」という具体的な目標を定めており、かつ、その「〇〇」が実現された暁には、自分にどのようなリターン(この場合は金銭的報酬)が返ってくるのかという点もきっちりと見越していた(具体的に何クローネ稼げるかを知っていた)ために、挫折することなく日本語の習得を了えることができたのです。

なお、リターンについては、できる限り、この例のように実利的なほうがよいです。必ずしもお金である必要はありませんが、食欲とか性欲といった人間の基本的な欲望に直結していたりするとうまくいきます。例えば、英語学者の渡部昇一先生の『知的生活の方法』(講談社現代新書)には、英書を母国語のように読めるようになることを志して、大量にポルノ小説を読む話が出てきますが、これなどは効果的な方法の一つです。

あるいは全身全霊を捧げられるような趣味なんかでもいいです。例えば、世界には、日本のマンガが大好きな若者がかなりたくさんいます(参考資料1参考資料2参考資料3)。こういう若者は、日本語のマンガを読みたいために、驚くべき速さで日本語をマスターし、日本語を読みこなすようになります。

結局のところ、お金でも食欲でも性欲でも趣味でもどれでもいいわけですが、とにかく重要なのは、最後までモチベーションをきちんと維持できるような理由を見つけることです。これをきちんと持っている方は、どんな障碍にぶちあたっても、何とかそれを乗り越えて、最終的には必ず洋書が読めるようになります。そして、こういう実利的なリターンをきっちりと認識しながら「洋書読み」を志すと、上達の速度が格段に速くなりますし、そのプロセスも格段に楽しくなります。

それでは、次に、「洋書読み」になることにはどのようなメリット・デメリットがあるのか、という点をじっくりと検討していきましょう。

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